StarTrackers-人物紹介ブログ

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たかの友梨の経歴を調べてみた!子供時代は?

たかの友梨は美容業界の第一人者であり、「たかの友梨ビューティクリニック」の代表取締役会長を務める人物です。長きにわたって美容業界に貢献している人物ですが、どのような経歴の持ち主なのでしょうか。

華やかな印象から順調な人生を歩んでいるように思えますが、実は壮絶な過去を持っていました。この記事では、たかの友梨の子供時代から現在までの経歴や成功の実績、執筆した書籍までご紹介します。

たかの友梨について詳しく知りたい方は、ぜひ参考にしてください。

たかの友梨のプロフィール

たかの友梨

たかの友梨(たかの友梨ビューティクリニックより)
名前 たかの 友梨(本名:髙野 友梨)
生年月日  1948年1月22日
出身地 新潟県南魚沼郡湯沢町
居住地 -
最終学歴 群馬県立前橋女子高等学校(定時制)
職業 実業家、エステティシャン、美容研究家
趣味 -

たかの友梨の壮絶な子供時代

今は華やかな人生を生きているたかの友梨ですが、子供時代は壮絶な人生でした。まずは、たかの友梨の生い立ちからご紹介します。

たかの友梨幼くして養子に

たかの友梨は、1948年に新潟県で誕生しました。両親は父が医者、母は看護師をやっており、一見すると良い家庭に感じるでしょう。しかし、実は両親は不倫関係にあり、実際には夫婦ではありませんでした。父親には別に家庭があり子供もいたので、親戚との大きなトラブルが起き、結局両親は別れてしまいます。

たかの友梨には、2歳上の実姉がいます。姉と共に一時は父親に引き取られましたが、継母との相性が悪く、たかの友梨は姉とは別々に養子に出されてしまいました。養子の受け入れ先は養育費を目当てに引き取ったため、ろくに教育や世話を受けていなかったそうです。

しかし、3歳の頃にたかの友梨の状況を不憫に思った心優しい夫婦が現れ、引き取られることになります。

・幸せは続かず

ようやく安定した生活を送れるかと思ったものの、養父は住み込みで働いていた姪っ子と関係を持ち、子供ができたことがわかりました。養父と養母は別れ、たかの友梨は養母と共に群馬県に移住します。養母は寮母として働き、その時に年下の男性から求婚を受けて再婚をし、1年も立たずに子が生まれました。

しかし、2人目の夫も他の女性と駆け落ちし、養母は2人の子供を抱え途方に暮れてしまい、小学2年生の頃に養母の実家に預けられることになります。美容師を務める親戚の家で働き、11人の家族に給仕しながら、いつか養母と暮らせることを夢に見て頑張っていました。

たかの友梨が小学6年生になった頃、40歳になった養母とまた暮らせるようになりました。ところが養母にはすでに新しい夫がいて、邪魔者扱いを受けていたそうです。

・15歳で養子の事実を知る

たかの友梨は養子に出された記憶がなかったため、中学校になるまで育ての親を実の両親だと思っていました。しかし、15歳の頃に取り寄せた戸籍謄本で、養子である事実を知ったのです。今まで信頼していた母が実親ではないことを知り、たかの友梨の心は深く傷付きました。

大人に対する不信感が募り、自殺を考えるほどまで追い込まれてしまいます。遺書を書いて冷たい川に入水するものの、あまりの冷たさに冷静な気持ちを取り戻すことができ「このままでは犬死だ」という思いから自殺を断念します。むしろ、血のつながらない自分を育ててくれた養母に感謝の気持ちが湧き、自分の力で生きていこうと決心しました。

たかの友梨の現在は?成功までの道のり

続いては、たかの友梨エステ業界で成功した現在に至るまでの経歴をご紹介します。

・16歳で理容師の道に

男に振り回され続けた養母の口癖は「男に頼るな。腕一本で子供を育てられるよう、手に職をつけなさい」でした。その言葉のとおり、たかの友梨は手に職をつけることを決め、中学校卒業後には理容師の道を歩み始めます。

群馬県内の定時制高校に通いながら、一年制の理容学校にも通って技術を身に付けていきました。17歳でインターンを通じて理容師として仕事を始めます。学校と現場の違いを実感でき、たかの友梨はとても良い経験を得たそうです。

また、理容師となってから4年目には地元の理容コンクールに出場するようになり、群馬県内では常に入賞するほどの実力を持っていました。自信が付いたたかの友梨は、もっと腕を磨きたいという思いから上京を決意します。

・上京後、過労な生活による体への影響

上京後、理容師の安月給だけでは生活がままならないため、飲食店での皿洗いをはじめ、様々なバイトをこなして生計を立てていました。そんな無茶な生活を続ける中で、たかの友梨は自分の体の変化に気付きます。電車の窓に映る自分の姿は、目の下には真っ黒なクマ、顔はニキビだらけでひどい有様だったのです。

当時22歳だったたかの友梨にとって、ニキビは特に深刻な悩みでした。自分の顔の有様にショックを受けるたかの友梨でしたが、当時通っていた薬局の化粧品売り場で運命の出会いをします。

その売り場にはたかの友梨が憧れてしまうほど美しい販売員がいて、「ニキビがなくなったらもっときれいになるわよ」と化粧品を勧めてくれました。これをきっかけに、ビューティーアドバイザーの仕事や美容知識を深めたい思いが湧き、販売員と同じ化粧品会社へと入社します。

化粧品会社の研修を通じてメイクやヘアカットがますます上達し、接遇やホスピタリティなども学ぶことができ、自分自身も外見から内面まで磨かれていきました。研修や仕事の中で女性がきれいになることの重要性を、身を持って知ることができたそうです。

エステ業界に参入

たかの友梨エステティックサロンを紹介する新聞記事をきっかけに、エステ業界の道を歩むことにしました。貯金を全額引き下ろし単身でパリへ渡航し、老舗のエステティックサロンで最新のエステに触れていきました。

渡航後はパリのサロンで使われていた美顔器の効果に感動し、家庭用に改良して販売を始めます。手作りの美顔器の販売は大成功し、その後は自然化粧品の販売もスタートさせました。

当時、たかの友梨は26歳であり、若い女性経営者として注目されるようになります。事業の成功資金を元に、1978年に「たかの友梨ビューティクリニック」を創業します。まだ日本ではエステが浸透していなかったものの、彼女は成功の確信を得ていたそうです。

ニキビを無料で改善させるキャンペーンや1ヶ月3万円で何度もエステが受けられる定期券など様々な工夫を凝らし、顧客を増やしていきました。世界各地の最先端エステも取り入れ、有名人を起用したCMも打ち出し、全国120以上の店舗を持つ大手エステティックサロンへと成長していきました。

たかの友梨の現在

現在は、たかの友梨ビューティクリニックを運営する株式会社不二ビューティの代表取締役会長や一般社団法人エステティックセラピスト協会会長を務めています。

また、たかの友梨は社会貢献活動にも注力しており、児童養護施設の「鐘の鳴る丘 少年の家」などを運営する社会福祉法人「鐘の鳴る丘 愛誠会」の後援会長に就任しています。

具体的にはボランティア・寄付などを通じて、鐘の鳴る丘や災害にあった地域の復興支援などに取り組んでいます。2018年7月に起きた西日本大雨災害では、たかの友梨個人の私財から寄附も行いました。

子供時代に苦しい思いをたくさんしてきたからこそ、70歳を過ぎてもなお、今度は自分が子供たちを支えたいという気持ちからビジネスや社会貢献に力を入れているようです。

たかの友梨について理解を深められる書籍

たかの友梨についてもっと知りたいのであれば、自伝書の「運が悪くってよかった!」を読んでみてはいかがでしょうか。年商220億円の企業に成長するまでの、たかの友梨の波乱万丈の成功談を読むことができます。
ここで、読者の感想をご紹介します。

成功を目指す人ならやる気が出て前向きになれるとても良い本だと思います。
引用元:amazon

たかの友梨さんの自伝ですが、スタート(生い立ち)からしてすごい。
努力を惜しまないタフさと、行動力、判断力全てにおいてずば抜けている。スタッフやまわりを思いやる気持ちも優しくてこれを読んで大ファンになりました。少しでも近付きたいと思う。
引用元:amazon

「運が悪くってよかった!」を読んで、たかの友梨の壮絶な人生に驚く人は多いはずです。過酷な人生の中でも努力をし続ける姿勢に、感心や共感を抱く人もいるでしょう。
たかの友梨の思いや考えから学べることはたくさんあり、人生の成功につながるヒントが得られる可能性がある書籍となっています。

まとめ

今回は、たかの友梨の生い立ちから現在に至るまでの経歴をご紹介しました。たかの友梨は美容業界のパイオニアとして順風満帆な人生を送ってきたと思いきや、子供時代は波乱万丈な人生を歩んでいたことがわかりました。

そんな人生の中で諦めない気持ちや行動力、判断力が磨かれ、ビジネスの成功につながったのではないかと考えられます。現役で美容業界を中心にビジネスや社会貢献にも注力するたかの友梨の活躍に、今後も注目してみましょう。