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経営者、実業家、芸能人、Youtuberなどの人物像や経歴や活動内容についてご紹介します。

三木谷浩史経歴や人物像を調査!「企業の枠を越えて、未来を信じ、共に明日を創っていく」楽天グループの見据える未来とは?

三木谷浩史氏は、日本国内でインターネット関連事業を展開する楽天グループの創業者です。

楽天は創業後、早いスピードで成長し、瞬く間に日本を代表する大手企業の仲間入りを果たしました。そんな楽天グループの成長に導いているのが、代表取締役会長兼社長の三木谷浩史です。

この記事では、華々しい経歴を持つ三木谷浩史氏のプロフィールや実績、ビジネスを通じて目指していることについてご紹介します。

三木谷浩史氏のプロフィール

まずは、三木谷浩史氏がどのような人物なのか、プロフィールをご紹介します。

三木谷 浩史(楽天グループ株式会社より)

三木谷 浩史(楽天グループ株式会社より)
名前 三木谷 浩史(みきたに ひろし)
生年月日 1965年3月11日
出身地 東京都渋谷区松濤(松濤幼稚園の跡地)
居住地 -
最終学歴 一橋大学商学部卒業、ハーバード大学経営大学院修了
職業 楽天グループ 創業者・代表取締役会長兼社長
東京フィルハーモニー交響楽団理事長、一般社団法人新経済連盟代表理事、株式会社楽天野球団代表取締役会長兼オーナー、株式会社クリムゾンフットボールクラブ(現楽天ヴィッセル神戸株式会社)代表取締役会長 他
趣味 ワイン、ゴルフ等

三木谷浩史氏は、著名人の親族が多い裕福な家庭で誕生しました。父は、日本金融学会の会長を務めていた神戸大学の名誉教授である三木谷良一氏です。

ちなみに、楽天ヴィッセル神戸取締役副会長で、神戸サッカー協会会長の三木谷研一氏は2歳上の実兄になります。また、4歳上の姉もおり、医師として活躍しているそうです。

父方の祖母の先祖には徳川四天王の一人である本多忠勝がおり、第9代目山崎藩主の本多忠明は高祖父にあたります。さらに、母方の祖父は東洋商事の社長を務めた浦島秀雄氏、従兄弟にはミノルタカメラの総合者である田嶋一雄氏もいます。

三木谷浩史氏は楽天グループの創業者・代表取締役会長兼社長であると同時に、新経済連盟代表理事をはじめ、東北楽天ゴールデンイーグルスの会長兼球団オーナー、Jリーグヴィッセル神戸会長など様々な役職にも付いています。

三木谷浩史氏の経歴・実績

兵庫県神戸市で誕生した三木谷浩史氏は、一橋大学商学部を卒業しています。大学では金融論を学んでおり、卒業後はみずほ銀行(旧日本興業銀行)に入行しました。

1993年にアメリカのハーバード大学経営学修士MBA)を取得して、日本に戻ってきています。1995年にみずほ銀行を退社して、1997年にのちに楽天となるECモール運営会社で起業しました。

三木谷浩史氏が起業を決めたのは、阪神大震災で親戚や友人を亡くした経験だと言います。震災をきっかけに「日本が終わってしまうのでは」という不安から「できることはすべてやろう」と決意し、人々や社会の役に立つために起業しました。

創業から2013年で、楽天の国内グループサービスの年間流通総額は4兆円を超え、短期間で急成長を果たしています。急成長できた理由としては、「インターネットの可能性を真剣に信じていた」ことをインタビューで挙げています。

三木谷浩史氏は、世の中の1歩・2歩先を見据えて商売を行っており、変化する環境を想定しながら、ゼロベースのビジネスモデルを構築してきました。

創業当時、インターネットショッピングは流行らないと酷評されていましたが、三木谷浩史氏は本質を見抜いてECモール事業を展開し、成功を収めたのです。

2008年に発行されたフォーブス誌の日本人富豪ランキングでは、38億ドル(約4,000億円)の資産を保有しているとして、8位にランクインしています。その後のランキングでも上位にランクインしており、2015年のランキングでは68億ドル(約1兆400億円)にも増え、3位となりました。

三木谷浩史氏が取り組む慈善活動

三木谷浩史氏は、以下の慈善活動にも積極的に取り組んでいます。

2011年 東日本大震災の被災地に個人の資金から10億円強、会社からも3億円を寄付
2015年 セールスフォームの創業者であるマーク・ベニオフ氏と共同で京都大学iPS細胞研究所に計5億円を寄付
2016年 熊本地震の被災地に個人の資金から3,000万円を寄付し、会社から3,000万円相当を拠出
2020年 新型コロナウイルス感染症の流行をうけ、こうべ医療者応援ファンドを寄付
大阪府に対して個人が所有するホテルを感染者受け入れ施設として無償で提供
2021年 9,000万円を寄付して、フルブライト・プログラムに参加する日本人を支援するための奨学金を設立
2022年 ウクライナにロシアが侵攻後、ウクライナ政府に10億円を寄付

三木谷浩史氏は、個人でも多額の寄付を多数行ってきました。

2021年には、多額の私財を寄付した実績が評価され、紺綬褒章に付する飾版並びに賞杯を授かっています。

三木谷浩史氏がビジネスを通じて目指していること

三木谷浩史氏は、“企業の枠を越えて、未来を信じ、共に明日を創っていく”というメッセージに基づいて楽天グループを運営しています。

創業から20年を迎え、グローバルイノベーションカンパニーを目指すことを掲げています。 Eコマースのパイオニアとして、ポイントプログラムやクレジットカード決済など、世界に先駆けて新サービスを導入してきました。

今も常識にとらわれることなく、画期的なアイデアを組み合わせてイノベーションを生み出し続け、人々の夢を実現する後押しや世界に喜び・楽しさを届ける企業を目指しています。

まとめ

今回は楽天グループの創業者である、三木谷浩史氏についてご紹介しました。

三木谷浩史氏はイノベーションの力を信じて、ECモール事業を中心にインターネット関連事業を展開し、成功を収めました。今では日本を代表する経営者・資産家であり、多くの人々の憧れでもあります。

また、慈善活動も積極的に行っており、人としても優れている人物であることがわかりました。

まだまだ成長し続けるであろう楽天グループや三木谷浩史氏の活躍に注目してみてはいかがでしょうか。

樋口達夫の経歴を調査!世界5指のヘルスケア企業を目指す大塚HDが大切にしていることとは?

オロナミンCカロリーメイトで知られる大塚製薬ですが、どんな人物が社長を務めているのか気になる方もいるのではないでしょうか。

そこで今回は、大塚製薬元代表取締役社長・現代表取締役会長を務める樋口達夫氏についてご紹介します。樋口達夫氏のプロフィールから経歴、実績まで調査しました。

樋口達夫氏のプロフィール

樋口達夫(大塚ホールディングスより)
名前 樋口 達夫(ひぐち たつお)
生年月日 1950年6月14日
出身地 東京都
居住地 -
最終学歴 北海道大学大学院
職業 大塚ホールディングス代表取締役社長兼CEO、大塚製薬代表取締役会長、日本製薬団体連合会副会長
趣味 -

樋口達夫氏は、大塚製薬大塚製薬工場大鵬薬品工業といったグループ会社をまとめる大塚ホールディングスの初代代表取締役社長です。

その他、大塚製薬代表取締役会長、日本製薬団体連合会副会長なども務めています。

樋口達夫氏の経歴

1975年 北海道大学水産学部食品学科卒業
1977年 北海道大学大学院修了
大塚製薬入社
2000年 同社代表取締役社長に就任
2008年 大塚ホールディングスの初代代表取締役社長に就任
2018年 日本製薬団体連合会副会長、東京医薬品工業協会会長に就任
2020年 大塚製薬代表取締役会長に就任
国立大学法人北海道大学経営協議会委員に就任

樋口達夫氏は、東京都出身ですが、大学は北海道大学を卒業しています。

現在は水産学部の食品学科が存在しないため、入学難易度などは不明です。しかし、1960年代以降は環境問題が大きく注目され始めたこともあり、環境問題にも深い関わりを持つ水産学部は人気が高い学部だったと考えられます。

樋口達夫氏は大学院を修了し、大塚製薬に入社してから約23年で代表取締役社長に就任しています。

これらを踏まえると、樋口達夫氏は当時からかなりの秀才で、腕の立つ人物だったと言えるでしょう。

大塚製薬代表取締役社長に就任してから8年後には、新たに発足した大塚ホールディングス代表取締役社長に就任し、その後も日本製薬団体連合会副会長、東京医薬品工業協会会長などを歴任しています。

日本製薬団体連合会と東京医薬品工業協会は共に、医薬品工業の発達や国民生活の向上に貢献することを目的とした団体です。日本製薬団体連合会は製薬業界で活躍する業界団体で組織されている団体で、日本ジェネリック製薬協会や日本OTC医薬品協会なども加盟しています。

特に高品質で低価格のジェネリック医薬品に助けられている方は多いのではないでしょうか。OTC医薬品も急な風邪や受診できない時に重宝します。

樋口達夫氏は上記のようになくてはならない存在のトップに立っており、様々な活動・事業を展開しているのです。

樋口達夫氏の実績

樋口達夫氏の凄まじさは経歴からも見て取れましたが、具体的な実績はあるのでしょうか。 樋口達夫氏は、大塚ホールディングスの上場に踏み切った人物です。

意外に思われるかもしれませんが、大塚製薬は今でこそ国内製薬企業のトップクラスを維持していますが、大塚製薬の創業者である父親・武三郎が上場に否定的だったことから、大塚製薬は長年非上場の企業でした。

しかし、樋口達夫氏は大塚HD代表取締役社長に就任して約2年で上場に踏み切ったのです。上場に踏み切った理由は、現状維持では未来を切り拓けないと考えたためです。

新たな課題に挑戦し、より良い企業を目指すという意味でも、大塚HDを上場させたのは素晴らしい判断だったと考えられます。

樋口達夫氏がトップを務める大塚HDが大切にしていること

大塚HDは、“Otsuka-people creating new products for better health worldwide”(世界の人々の健康に貢献する革新的な製品を創造する)を企業理念として掲げており、「大塚だからできること」「大塚にしかできないこと」を大切にし、様々な事業の展開・活動をしています。

実際に、トータルヘルスケアが可能な独自のビジネスモデル、グローバル展開、革新的な製品・サービス創出の追求など、大塚HDならではの強みは多くあります。特にブランド力は大塚HDならではの独創性によって粘り強さを見せていることは、誰もが感じている点ではないでしょうか。

ポカリスエットやオロナインをはじめとする革新的な製品は、大塚製薬だからこそ編み出せた賜物です。

現在も研究開発には力を入れており、今後も新しい商品が生み出されることも期待できます。

まとめ

今回は、大塚HD元代表取締役社長・現代表取締役会長を務める樋口達夫氏についてご紹介しました。

大塚製薬の製品は日常でもよく見かけることから、社長や企業理念について気にしたことがなかったという方も多いのではないでしょうか。

しかし、現代表取締役会長である樋口達夫氏は、現状維持では成長できないとし、持ち前の判断力で企業を支えてきました。

「大塚だからできること」「大塚にしかできないこと」を大切にしていること、世界5指のヘルスケア企業を目指していることから、今後の製品やサービスにも期待できるはずです。

佐治信忠の経歴や人物像を調べてみた!「大きな夢を掲げないと、社員だってついてこない」と語るサントリーHD会長の信念とは?

佐治信忠氏は、サントリーホールディングス代表取締役会長を務める人物です。 「大きな夢を掲げないと、社員だってついてこない」という信念を持ち、サントリーの成長に大きく寄与してきた人物でもあります。

今回は、そんな佐治信忠氏の経歴や人物像、「大きな夢を掲げないと、社員だってついてこない」と語る真相について解説していきます。

佐治信忠氏のプロフィール

まずは、佐治信忠氏のプロフィールや経歴、サントリーホールディングスの概要からみていきましょう。

佐治信忠(サントリーホールディングスより)
名前 佐治 信忠(さじ のぶただ)
生年月日 1945年11月25日
出身地 兵庫県川西市
居住地 -
最終学歴 慶應義塾大学経済学部経済学科卒業、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)経営大学院修了
職業 サントリーホールディングス株式会社代表取締役会長
趣味 読書、ウオーキング、水泳

佐治信忠氏の経歴

佐治信忠氏は、1945年11月にサントリー2代目社長である佐治敬三の長男として兵庫県川辺郡(現在の川西市)で生まれました。

1964年3月に甲陽学院高等学校を卒業し、1968年3月には慶應義塾大学経済学部経済学科(国際経済学の山本登ゼミ)を卒業しています。

その後、1971年3月にカリフォルニア大学ロサンゼルス校経営大学院を修了し、同年4月からソニー商事に入社しました。 1974年6月にサントリーへ入社し、1989年3月には副社長に就任、2001年3月からは社長に就任しています。佐治信忠氏が社長に就任していた期間は2009年3月までです。

さらに、2001年9月には日本洋酒酒造組合理事長、同年12月には日本ワイナリー協会会長にも就任しています。2002年3月には、サントリー会長を兼務するようになりました。こちらの任期も2009年3月までです。

2002年5月には社団法人総合デザイナー協会理事長、2003年8月にはビール酒造組合会長代表理事にも就任しました。ビール酒造組合会長代表理事は2004年7月まで勤めていました。

2009年2月にはサントリーホールディングスの社長、2014年にはサントリーホールディングスの会長に就任しています。

サントリーホールディングスの概要

サントリーホールディングスは、大阪府大阪市北区に本社を置く株式会社です。

洋酒やビール、清涼飲料水の製造・販売を行っています。 主要な事業はアルコール飲料の製造・販売ですが、1980年代以降は清涼飲料水でも一定の地位を築くことに成功しています。

以前は初代のサントリー株式会社を中心とするグループでしたが、2009年4月1日から持株会社制に移行しました。そして、2022年7月1日に子会社のうち日本国内における酒類事業の再編が行われ、2代目のサントリー株式会社となりました。

佐治信忠氏の人物像

佐治信忠氏は歯に衣着せぬ言動が多く、「本音の論客」として財政界に対してもストレートに物を言います。ストレートな物言いが話題になることも珍しくありません。しかし、ただストレートに物事を発するだけではなく、しっかりと実績を残していることから、明確な裏付けもあるのだと考えられます。

雑誌「フォーブス」では、2013年4月3日付の記事で個人資産が107億ドルと推定されており、日本の富豪2位にランキングされていることでも有名です。

また、宣弘社社長の小林隆吉氏とは大学時代に広告研究会に所属していた頃からの友人で、2002年に経営難に陥ってしまった宣弘社を買収し、サン宣弘社を設立しています。

現在は電通グループの一員となり会社名を「電通アドギア」に変更していますが、宣弘社は現存しています。

「大きな夢を掲げないと、社員だってついてこない」と語る真相は?

佐治信忠氏について書かれた書籍『世襲と経営 サントリー・佐治信忠の信念』の中で、「大きな夢を掲げないと、社員だってついてこない」という言葉が取り上げられています。最後に、「大きな夢を掲げないと、社員だってついてこない」と語る真相についてご紹介します。

佐治信忠氏がこのように語っているのは、サントリーグループの企業理念が根底にあると考えられます。 サントリーグループの公式サイトに書かれている企業理念(わたしたちの価値観)を見てみると、「Growing for Good」「やってみなはれ」「利益三分主義」の3つが掲げられています。

この中の1つである「やってみなはれ」が「大きな夢を掲げないと、社員だってついてこない」につながっていると考察できるでしょう。

「やってみなはれ」は、失敗を恐れることなく新しい価値の創造を目指すため、諦めずに挑戦することを意味しています。つまり、会社自体が大きな目標に向けてチャレンジすることに前向きだと言えるのです。

まとめ

佐治信忠の経歴や人物像、そして「大きな夢を掲げないと、社員だってついてこない」という言葉の真相についてご紹介しました。

佐治信忠氏自身も、アメリカ市場への挑戦などを実践し、グローバル化の推進に一役買っています。実際に大きな夢を掲げ、成功しているからこそ、説得力のある言葉です。

グローバル化を推進するため、ニュージーランドのフルコア社、フランスのオランジーナ社、イギリス老舗ブランドのルコゼードとライビーナ、アメリカのビーム社の買収を行いました。その結果、佐治信忠氏の行動で真のグローバル企業へと成長するきっかけとなったのです。

佐治信忠氏は、「大きな夢を掲げないと、社員だってついてこない」とただ語るだけではなく、自分自身でも行動しています。結果も残していることから、多くの人から支持される人物だと言えるでしょう。

似鳥昭雄の経歴や人物像は?発達障害も強みにニトリを大企業に成長させた成功の秘訣は?

似鳥昭雄氏の名前を聞いてピンとこない方はいるかもしれませんが、「株式会社ニトリ」と言われれば、あれか!と思う方が多いのではないでしょうか。

株式会社ニトリは35期連続で増収増益してきた優良企業です。2021年には700店舗を達成し、海外進出も積極的に行っています。

また、似鳥昭雄氏と言えば日本の大手企業の代表としては珍しく自身が発達障害ADHD)であるという事を公表しているということでも知られています。

今回は「お、ねだん以上。」のCMのメロディーでお馴染みの「ニトリ」創業者である似鳥昭雄氏のプロフィールや生い立ち、経歴についてご紹介します。

似鳥昭雄のプロフィール

似鳥昭雄

似鳥昭雄(ニトリホールディングスより)
名前 似鳥 昭雄
生年月日 1944年3月5日
出身地 北海道(樺太
居住地 -
最終学歴 北海学園大学 経済学部
職業 株式会社ニトリホールディングス 会長
趣味 ゴルフ・旅行

株式会社ニトリホールディングスの社長として一代で大企業に育て上げたあと、2016年に社長の役職を次代に譲り、現在は同社の会長として活躍しています。

48歳の時に始めた趣味のゴルフは本当に大好きなのだそうで、夫婦でコースを回ることも多いのだとか。

似鳥昭雄の生い立ち

株式会社ニトリホールディングスの会長である似鳥昭雄氏の生い立ちについて紹介します。

勉強が苦手だった子供時代

1944年の3月に樺太で生まれた似鳥昭雄氏は、終戦後の1947年、3歳の時に母の出身地であった札幌に帰国しました。学生時代は勉強が苦手で、小学6年生になるまで自分の名字を漢字で書けなかったとインタビューでも語っています。

大学を卒業する頃は不況で就職先がなく、父の会社に就職しました。しかし、父の会社での仕事は肉体労働が合わず退職。別の企業に就職しても軽い対人恐怖症が原因でノルマが達成できずにおよそ半年でクビになってしまいます。

「人がやらないことをやる」ニトリ創業

ニトリ創設のきっかけになったのは、苦手なことが多かった昭雄氏に対して彼の父である義雄氏が言った、勉強の苦手な自分が生きていくために「人の倍努力するか、人がやらないことをやるか」という言葉を思い出したことでした。人の倍努力するのは難しかったので、「人がやらないこと」をやろうと思い立ったのです。

「人がやらないことをやる」と決めた昭雄氏が目を付けたのが、当時自宅の周辺になかった「家具屋を始める」ということでした。これが「似鳥家具店」(現在のニトリ)の創業のはじまりです。

店舗運営は苦境に立たされる場面もありましたが、接客などが苦手な昭雄氏の代わりに販売を担当するなど、妻の支えが大きかったということです。この経験から、「苦手なことをカバーしてくれる人がいれば上手くいく。役割分担をして協力する」ということを学んだのだそうですよ。

米国視察から「ニトリ」の方針が固まる

経営が軌道に乗ってすぐ、1972年のことです。似鳥家具店のすぐ近くに競合店が進出してきた結果、さらなる苦境に直面します。藁にも縋る思いで参加したアメリカにある家具店への視察ツアーで、昭雄氏は「ニトリ」の経営を行ううえで大事な「芯」を見つけることになりました。

「日本人の住まいを、アメリカのように豊かなものにしたい」……当時のアメリカでは、日本の3分の1の価格で色やスタイルが統一された素敵な家具がたくさん売られており、それを見た昭雄氏はとても感動したと語っています。

その感動は「ロマン(志)」となり「ニトリ」の事業の原点となりました。今でも「ニトリ」は一途にその志を貫いているのです。

ちなみに、この「ロマン」は、ニトリのグループ理念にも使われている言葉ですね。

ニトリ」の沿革

1967年 「似鳥家具店」を創業
1972年 「似鳥家具卸センター株式会社」を設立
1978年 社名を「株式会社ニトリ家具」に変更
1986年 社名を「株式会社ニトリ」に変更し、店名を「ホームファニシング ニトリ」に変更
1993年 本州第1号店「勝田店」を茨城県ひたちなか市にオープン
1998年 店名を「ホームファッション ニトリ」に変更
2000年 「株式会社マルミツ(現 株式会社ニトリファニチャー)」完全子会社化
2002年 東京証券取引所一部に株式を上場
2003年 100店舗達成
2006年 東京本部を新設(東京都北区:赤羽)
2009年 200店舗達成
2010年 持株会社体制へ移行、販売部門を「株式会社ニトリ」、物流部門を「株式会社ホームロジスティクス」に分社化し、社名を「株式会社ニトリホールディングス」に変更
2011年 「株式会社ニトリファシリティ」設立
「株式会社ホーム・デコ」子会社化
2013年 300店舗達成
2015年 400店舗達成
2018年 タイネゴロ社(現サイアムニトリ)を完全子会社化
500店舗達成
2020年 600店舗達成
2021年 700店舗達成
株式会社島忠を完全子会社化

(出典:ニトリ公式企業サイト)

北海道で誕生した株式会社ニトリが本州進出を果たしたのは1993年のこと。それから30年、今や「ニトリ」は全都道府県進出を果たし、海外へと舞台を進めています。

2023年現在、ニトリグループ全体の店舗数は909店舗にも登りました。物流の事業所は11拠点。従業員数は37,329人と、文句なしの大企業と言えます。

似鳥昭雄の人物像

似鳥昭雄氏は、子供の頃から勉強ができなかったり、じっとしていることが苦手だったり、軽い対人恐怖症だったりと苦手なことがたくさんありました。それらは後に発達障害が原因の一部であることがわかっていますが、それが確定したのは70代になってから。それまでは原因がわからない苦労で大変だった事も多かったと思います。

しかし、彼がよくインタビューで語っている「苦手を克服しない」という生き方は同じような理由で悩んでいる人にとって参考になると感じます。

「苦手を克服しない生き方」というと難しく捉えられがちですが、似鳥昭雄氏は、例えばニトリ創業当時は苦手な接客を奥さんにお願いし、自分は良い商品を安く仕入れる事に専念していました。よく落としてしまう財布は、常に洋服に紐で繋げているのだとか。

似鳥昭雄氏は、そういった短所を克服するよりも、自分の持っている長所を伸ばしていくことにリソースを割いているそうです。「物事を突き詰める」「感受性が強い」など発達障害と言われる人々が持つ良い面を活かし、苦手な所を周りに助けてもらいながら仕事に取り組んでいるのですね。

まとめ

株式会社ニトリホールディングスの会長、似鳥昭雄氏の経歴や人物像、ニトリの沿革などについてご紹介しました。

昭雄氏は自身の発達障害を世間に公表した数少ない経営者とも知られていますが、苦手なことがたくさんある自分が、それでも自身の長所を伸ばして成功者となることで同じ境遇に悩んでいる人たちに希望を与えたいという想いからなのだそうです。

また、現在昭雄氏は同じような発達障害を抱えた子供のために参加型のイベントなどを開催したり、「ユニークな子どもに対する教育研究活動の支援」を目的とした寄附を行ったりするなど、社会貢献活動も積極的に行っているところもすばらしいですね。

たかの友梨の経歴を調べてみた!子供時代は?

たかの友梨は美容業界の第一人者であり、「たかの友梨ビューティクリニック」の代表取締役会長を務める人物です。長きにわたって美容業界に貢献している人物ですが、どのような経歴の持ち主なのでしょうか。

華やかな印象から順調な人生を歩んでいるように思えますが、実は壮絶な過去を持っていました。この記事では、たかの友梨の子供時代から現在までの経歴や成功の実績、執筆した書籍までご紹介します。

たかの友梨について詳しく知りたい方は、ぜひ参考にしてください。

たかの友梨のプロフィール

たかの友梨

たかの友梨(たかの友梨ビューティクリニックより)
名前 たかの 友梨(本名:髙野 友梨)
生年月日  1948年1月22日
出身地 新潟県南魚沼郡湯沢町
居住地 -
最終学歴 群馬県立前橋女子高等学校(定時制)
職業 実業家、エステティシャン、美容研究家
趣味 -

たかの友梨の壮絶な子供時代

今は華やかな人生を生きているたかの友梨ですが、子供時代は壮絶な人生でした。まずは、たかの友梨の生い立ちからご紹介します。

たかの友梨幼くして養子に

たかの友梨は、1948年に新潟県で誕生しました。両親は父が医者、母は看護師をやっており、一見すると良い家庭に感じるでしょう。しかし、実は両親は不倫関係にあり、実際には夫婦ではありませんでした。父親には別に家庭があり子供もいたので、親戚との大きなトラブルが起き、結局両親は別れてしまいます。

たかの友梨には、2歳上の実姉がいます。姉と共に一時は父親に引き取られましたが、継母との相性が悪く、たかの友梨は姉とは別々に養子に出されてしまいました。養子の受け入れ先は養育費を目当てに引き取ったため、ろくに教育や世話を受けていなかったそうです。

しかし、3歳の頃にたかの友梨の状況を不憫に思った心優しい夫婦が現れ、引き取られることになります。

・幸せは続かず

ようやく安定した生活を送れるかと思ったものの、養父は住み込みで働いていた姪っ子と関係を持ち、子供ができたことがわかりました。養父と養母は別れ、たかの友梨は養母と共に群馬県に移住します。養母は寮母として働き、その時に年下の男性から求婚を受けて再婚をし、1年も立たずに子が生まれました。

しかし、2人目の夫も他の女性と駆け落ちし、養母は2人の子供を抱え途方に暮れてしまい、小学2年生の頃に養母の実家に預けられることになります。美容師を務める親戚の家で働き、11人の家族に給仕しながら、いつか養母と暮らせることを夢に見て頑張っていました。

たかの友梨が小学6年生になった頃、40歳になった養母とまた暮らせるようになりました。ところが養母にはすでに新しい夫がいて、邪魔者扱いを受けていたそうです。

・15歳で養子の事実を知る

たかの友梨は養子に出された記憶がなかったため、中学校になるまで育ての親を実の両親だと思っていました。しかし、15歳の頃に取り寄せた戸籍謄本で、養子である事実を知ったのです。今まで信頼していた母が実親ではないことを知り、たかの友梨の心は深く傷付きました。

大人に対する不信感が募り、自殺を考えるほどまで追い込まれてしまいます。遺書を書いて冷たい川に入水するものの、あまりの冷たさに冷静な気持ちを取り戻すことができ「このままでは犬死だ」という思いから自殺を断念します。むしろ、血のつながらない自分を育ててくれた養母に感謝の気持ちが湧き、自分の力で生きていこうと決心しました。

たかの友梨の現在は?成功までの道のり

続いては、たかの友梨エステ業界で成功した現在に至るまでの経歴をご紹介します。

・16歳で理容師の道に

男に振り回され続けた養母の口癖は「男に頼るな。腕一本で子供を育てられるよう、手に職をつけなさい」でした。その言葉のとおり、たかの友梨は手に職をつけることを決め、中学校卒業後には理容師の道を歩み始めます。

群馬県内の定時制高校に通いながら、一年制の理容学校にも通って技術を身に付けていきました。17歳でインターンを通じて理容師として仕事を始めます。学校と現場の違いを実感でき、たかの友梨はとても良い経験を得たそうです。

また、理容師となってから4年目には地元の理容コンクールに出場するようになり、群馬県内では常に入賞するほどの実力を持っていました。自信が付いたたかの友梨は、もっと腕を磨きたいという思いから上京を決意します。

・上京後、過労な生活による体への影響

上京後、理容師の安月給だけでは生活がままならないため、飲食店での皿洗いをはじめ、様々なバイトをこなして生計を立てていました。そんな無茶な生活を続ける中で、たかの友梨は自分の体の変化に気付きます。電車の窓に映る自分の姿は、目の下には真っ黒なクマ、顔はニキビだらけでひどい有様だったのです。

当時22歳だったたかの友梨にとって、ニキビは特に深刻な悩みでした。自分の顔の有様にショックを受けるたかの友梨でしたが、当時通っていた薬局の化粧品売り場で運命の出会いをします。

その売り場にはたかの友梨が憧れてしまうほど美しい販売員がいて、「ニキビがなくなったらもっときれいになるわよ」と化粧品を勧めてくれました。これをきっかけに、ビューティーアドバイザーの仕事や美容知識を深めたい思いが湧き、販売員と同じ化粧品会社へと入社します。

化粧品会社の研修を通じてメイクやヘアカットがますます上達し、接遇やホスピタリティなども学ぶことができ、自分自身も外見から内面まで磨かれていきました。研修や仕事の中で女性がきれいになることの重要性を、身を持って知ることができたそうです。

エステ業界に参入

たかの友梨エステティックサロンを紹介する新聞記事をきっかけに、エステ業界の道を歩むことにしました。貯金を全額引き下ろし単身でパリへ渡航し、老舗のエステティックサロンで最新のエステに触れていきました。

渡航後はパリのサロンで使われていた美顔器の効果に感動し、家庭用に改良して販売を始めます。手作りの美顔器の販売は大成功し、その後は自然化粧品の販売もスタートさせました。

当時、たかの友梨は26歳であり、若い女性経営者として注目されるようになります。事業の成功資金を元に、1978年に「たかの友梨ビューティクリニック」を創業します。まだ日本ではエステが浸透していなかったものの、彼女は成功の確信を得ていたそうです。

ニキビを無料で改善させるキャンペーンや1ヶ月3万円で何度もエステが受けられる定期券など様々な工夫を凝らし、顧客を増やしていきました。世界各地の最先端エステも取り入れ、有名人を起用したCMも打ち出し、全国120以上の店舗を持つ大手エステティックサロンへと成長していきました。

たかの友梨の現在

現在は、たかの友梨ビューティクリニックを運営する株式会社不二ビューティの代表取締役会長や一般社団法人エステティックセラピスト協会会長を務めています。

また、たかの友梨は社会貢献活動にも注力しており、児童養護施設の「鐘の鳴る丘 少年の家」などを運営する社会福祉法人「鐘の鳴る丘 愛誠会」の後援会長に就任しています。

具体的にはボランティア・寄付などを通じて、鐘の鳴る丘や災害にあった地域の復興支援などに取り組んでいます。2018年7月に起きた西日本大雨災害では、たかの友梨個人の私財から寄附も行いました。

子供時代に苦しい思いをたくさんしてきたからこそ、70歳を過ぎてもなお、今度は自分が子供たちを支えたいという気持ちからビジネスや社会貢献に力を入れているようです。

たかの友梨について理解を深められる書籍

たかの友梨についてもっと知りたいのであれば、自伝書の「運が悪くってよかった!」を読んでみてはいかがでしょうか。年商220億円の企業に成長するまでの、たかの友梨の波乱万丈の成功談を読むことができます。
ここで、読者の感想をご紹介します。

成功を目指す人ならやる気が出て前向きになれるとても良い本だと思います。
引用元:amazon

たかの友梨さんの自伝ですが、スタート(生い立ち)からしてすごい。
努力を惜しまないタフさと、行動力、判断力全てにおいてずば抜けている。スタッフやまわりを思いやる気持ちも優しくてこれを読んで大ファンになりました。少しでも近付きたいと思う。
引用元:amazon

「運が悪くってよかった!」を読んで、たかの友梨の壮絶な人生に驚く人は多いはずです。過酷な人生の中でも努力をし続ける姿勢に、感心や共感を抱く人もいるでしょう。
たかの友梨の思いや考えから学べることはたくさんあり、人生の成功につながるヒントが得られる可能性がある書籍となっています。

まとめ

今回は、たかの友梨の生い立ちから現在に至るまでの経歴をご紹介しました。たかの友梨は美容業界のパイオニアとして順風満帆な人生を送ってきたと思いきや、子供時代は波乱万丈な人生を歩んでいたことがわかりました。

そんな人生の中で諦めない気持ちや行動力、判断力が磨かれ、ビジネスの成功につながったのではないかと考えられます。現役で美容業界を中心にビジネスや社会貢献にも注力するたかの友梨の活躍に、今後も注目してみましょう。

光本勇介の経歴や人物像は?著書の評判についてもご紹介!

皆さんは起業家の光本勇介氏をご存知でしょうか。光本勇介氏は、代金を後から支払える旅行アプリ「TRAVEL Now(現:エアトリNow)」や目の前のアイテムの写真を撮るだけですぐにキャッシュを受け取ることができるアプリ「CASH」など、これまでの常識を覆すようなサービスを次々に生み出しては売却している人物です。

今回は光本勇介氏とはどのような人物なのか、経歴や人物像、これまで起業・売却したサービスについてご紹介します。後半では、光本勇介氏の著書「実験思考 世の中、すべては実験」の評判や現在の活動についても触れています。ぜひ最後までご覧ください。

光本勇介のプロフィール

光本勇介のプロフィール

光本勇介(インスタグラムより)
名前 光本 勇介(みつもと ゆうすけ)
生年月日 1982年12月10日
出身地 神奈川県中郡二宮町
居住地 東京都港区南青山
最終学歴 青山学院大学 国際政治経済学
職業 実業家、起業家
趣味 インターネット

光本勇介の生い立ち

続いては光本勇介氏のこれまでの生い立ちについてご紹介します。1982年12月10日に神奈川県で生まれた光本勇介氏は、10~14歳までの4年間を父親の都合によりデンマークで生活することになります。

その後、親は帰国しましたが、光本勇介氏は一人でヨーロッパに残ることを決め、イギリスの高校へ入学し18歳まで寮生活を送りました。10~18歳までの期間を海外で過ごした光本勇介氏は、高校卒業後に帰国し青山学院大学院へ入学、国際政治経済学部で学びます。

卒院後はジオメトリー・オグルヴィ・ジャパンの前身である外資系広告代理店オグルヴィ・アンド・メイザージャパンに入社し、社会人としての経験を積んでいきました。

光本勇介の経歴/起業・売却した企業やサービスについて  

2008年10月に株式会社ブラケットを創業した光本勇介氏は、最短2分でオンラインストアを作れる「STORES.jp」というサービスを始めます。初期費用や月額費用がかからず、手軽にオンラインストアを開設できるとあって、多くの方から支持されていた「STORES」を、光本勇介氏は2013年8月に、ファッションの総合通販サイト「zozo town」を運営するスタートトゥデイ社(現株式会社zozo)に売却しました。

その後、2016年10月にスタートトゥデイ社にM&Aの一種であるMBOを実施し、再びブラケット社の代表取締役に就任しています。なお、株式会社ブラケットは現在、STORES株式会社に社名を変更しています。

ブラケット社(現STORES株式会社)以外にも、光本勇介氏はいくつもの企業を立ち上げた後に売却しています。

  • 2012年:CaFoRe、ModelTown
    売却先・金額は非公開(1億円以下)
  • 2013年:株式会社ブラケット
    株式会社zozo社と、zozo社の株式94万5,000株と株式交換
  • 2017年:株式会社バンク
    株式会社DMM.comに70億円で売却
  • 2018年:光本勇介氏が株式100%所有する会社(非公開)を売却
    売却先・金額は非公開(10億円以上20億円以下)
  • 2019年:Travel Now
    株式会社エアトリに売却、金額は非公開(1億円以上5億円以下)
  • 2020年:CASH、FOLLOW ME
    CASH…株式会社BuySell Technologiesに売却、金額は非公開(1億円以上5億円以下)
    FOLLOW ME …UUUM株式会社に売却、金額は非公開(1億円以上5億円以下)

なぜこれほどまでに自ら立ち上げ成功したサービスを売却しているのか、それは後ほどご紹介する光本勇介氏の著書「実験思考 世の中、すべては実験」を読むことでわかります。

光本勇介の人物像は?

現在実業家やタレントとして活躍する堀江貴文氏は、光本勇介氏に対して「新しいアイデアを生み出す、ぶっ飛んだ発想ができるビジネスの天才」と称しています。事実、光本勇介氏はこれまでにいくつものビジネスを成功させてきました。

例えば、2017年にリリースしたCASHは、手持ちのアイテムをスマホで撮影するだけで査定が行われ、アイテムを発送する前に現金化できる買い取りアプリです。

このようなサービスは一見革新的に思えますが、光本氏曰く「モノ払いの仕組み自体がCASHと同じであり、切り口を変えているだけ」と語っています。

こういった発想の切り替え・転換ができることこそ、光本氏の才能と言えるでしょう。また、光本氏は趣味にインターネットを挙げていますが、これは仕事にもつながっている部分です。高校生の頃から既にネットビジネスを手掛けていることから、趣味まで仕事に関連しているものになっています。

さらに、マス向けのサービスを生み出すために、「普通に生活する人」を意識して過ごすようにしているそうです。こうした背景からプライベートでも常に仕事を意識していることがわかります。

光本勇介の著書「実験思考 世の中、すべては実験」の評判は?

2019年に出版された「実験思考 世の中、すべては実験」は、光本勇介氏がこれまでに行ってきたことから考え方などを詳しく紹介している一冊です。

そんな光本氏の著書を読んだ人からはどのような評判を得ているのでしょうか。

毎日生活をしている中で、不満はもちろん何となく感じる違和感などがあってもつい「仕方ない」とスルーしてしまいがちです。しかし、光本氏のように実験思考を持っていれば、「その不満や違和感に対して自分ならどうするか」を考え、それを実験に移してみることで新しいビジネスチャンスを掴むきっかけになります。まずは違和感をスルーしないことから始めてみましょう。

ビジネスにおいて、「成功したいなら成功者の真似をする」と言われるほど真似ることは重要だとされています。しかし、真似をするだけでは成功できるわけではありません。光本氏のように、まずは自分ならどうするかを考え、自分のやり方を実験していくことで初めて本当の成功にたどり着けるのです。

こうした口コミも含め、実験思考の本質について理解し、これからチャレンジしていきたいという人が多く見つかりました。

光本勇介が人生や仕事で大切にしていること

光本勇介氏は株式会社バンクを立ち上げた際に、大切なこととして以下の3つを挙げていました。

  • 狂ったようなことをする
  • すべては実験
  • 全力で働く

新しいサービスを生み出すためには、固定観念や常識を取り払う必要があります。狂ったようなことでもすべて実験として取り組むことで、新たなものを生み出せると考えているのです。これは会社だけでなく、光本氏自身も大切にしていることだと考えられます。

光本勇介が手掛けた、優れたアイデアのサービス

現在は既に売却されているものの、株式会社バンクで様々なインターネットビジネスを打ち出していました。

CASH

CASHとは、すぐに現金化したい時に役立つアプリです。現金化したいアイテムを撮影し、アプリに投稿するだけで現金化ができます。本来ネットでモノを売る時は、アイテムを撮影して出品ページを作成し、それから買いたいユーザーとやり取りを行い、さらに商品を梱包して送ると、お金が支払われる仕組みです。この方法だとすぐに現金化することは難しい状態です。

しかし、CASHを使えばブランド品やスマホ、金券・ギフト券などの対象品であればすぐに現金化ができるようになっています。しかも自宅まで宅配業者がアイテムを取りに来てくれるので、梱包・配送の手間もかかりません。

CASHは株式会社バンクを立ち上げた2017年にリリースしましたが、SNSで話題を集めたことがきっかけで想定よりも利用者数が多く、開始16時間でサービスを一時停止せざるを得ない状況になってしまいました。その後メンテナンスを実施し、再リリースを果たしています。

TRAVEL Now(現:エアトリNow)

TRAVEL Nowは、国内外における約65,000種類もの旅行商品を後払いで予約・購入できるサービスです。旅行というと事前に料金を支払ったり、宿泊当日に支払ったりすることがほとんどですが、TRAVEL Nowを活用すれば2ヶ月後にコンビニで支払えば問題ありません。今は手元にお金がなくても自由に旅行を楽しみたいという方におすすめのサービスです。

光本氏は現在何している?

光本勇介氏は、2020年にCASHを株式会社BuySell Technologies へ、FOLLOW MEをUUUM株式会社へ売却して以降、特に動きは出ていません。しかし、プライベートでも常に仕事のことを考え、意識していることから、現在も新しいサービスを生み出すために動いているのではないかと考察できます。

まとめ

今回は光本勇介氏の経歴や人物像、著書の評判などについてご紹介してきました。光本勇介氏は数々のビジネスを生み出しており、企業やサービスを売却してきました。

著書「実験思考 世の中、すべては実験」では彼の考え方やビジネスに対する意識・心掛けなどがまとめられており、読んだ人からは良い評判が集まっています。

特にすべてを実験と捉えて行動に移すことは、“考えるだけで行動しない・できない人”にとって刺さるものがあるはずです。

光本氏の考え方をより深く知っていきたい方は、ぜひ「実験思考 世の中、すべては実験」も一読してみてください。

 

星野佳路の経歴や人物像は?星野リゾート成功への道のりとは?

高いレベルのおもてなしや極上の空間づくりが特徴の星野リゾートは、北海道から沖縄まで様々な地域に施設が展開されています。非日常的な体験ができ、多くのファンを持つグループです。

そんな星野リゾートを運営しているのが、“リゾート再生請負人”とも呼ばれている星野佳路氏です。その経営手腕が大きく評価されている人物ですが、これまでの人生は平坦な道のりではなかったと言います。

今回は、星野佳路氏のプロフィールや生い立ち、経歴などをご紹介し、どういった人物であるのか迫っていきましょう。

人生や仕事で大切にしていることなどもご紹介していくので、星野佳路氏について知りたい方はぜひ参考にしてください。

星野佳路のプロフィール

星野佳路のプロフィール

星野佳路(Facebookページより)
名前 星野 佳路(ほしの よしはる)
生年月日 1960年4月29日
出身地 長野県北佐久郡軽井沢町
居住地 軽井沢
最終学歴 慶應義塾大学経済学部卒業、米国コーネル大学ホテル経営大学院修士課程修了
職業 星野リゾート代表取締役社長
趣味 スキー(年間60日のスキー滑走を目標としている)

星野佳路の生い立ち

長野県北佐久郡軽井沢町で誕生した星野佳路氏には、3つ年下の弟がいます。星野温泉旅館の4代目として生まれ、軽井沢町立軽井沢中部小学校に入学しました。

その後、慶應義塾中等部に進学し、アイスホッケー部に所属します。全国大会にも出場し、優勝を経験するほどの腕の持ち主です。

高校は慶應義塾高等学校へ進学し、中学と同様アイスホッケー部に所属します。そこでも国体に出場し大きく活躍しました。

その後、慶應義塾大学経済学部へと進学し、慶應義塾体育会スケート部(ホッケー部門)において1年目からレギュラーを獲得します。3年生では主将を務め、多くの部員をまとめ上げました。

当時は「アイスホッケーがうまくなりたい」「チームを強くしたい」といった想いが強く、体力的に限界になりながらも我武者羅に練習をしていたと言います。その結果、学生選抜に入り、海外大会へも出場しています。

大学卒業後はアメリカにあるコーネル大学のホテル経営大学院でホテル経営について学び、1986年に修士課程を修了しています。

星野佳路の経歴

星野リゾート代表取締役社長を務めている星野佳路氏ですが、最初から星野リゾートで働いているわけではありません。

ここからは星野氏の経歴についてご紹介します。

実家を退社し再度アメリカへ

実家を継ぐために留学し、コーネル大学でホテル経営学を学んだ星野佳路氏ですが、アメリカの日本航空開発に現地採用され、会社員として働いていました。

しかし、父親に呼び戻されたことをきっかけに日本へ帰国し、星野温泉の代表取締役として入社します。そこでは星野氏の経営方針が組織内外に受け入れられず、約半年で退社を決意しました。

その後、再びアメリカへと渡った星野佳路氏はシティバンク銀行においてリゾートホテル事業の債権回収業務を担当し活躍していました。しかし、星野温泉株主や役員などから再度呼び戻され日本へと帰国します。

再び代表取締役に就任

1991年、星野佳路氏は星野温泉の4代目当主として代表取締役に再び就任します。当時、温泉旅館の運営のみだった経営を「軽井沢に閉じこもっていてはいけない」と判断し、「軽井沢を超えた場所で運営をする会社にする」というビジョンを掲げ、事業を続けました。

その結果、宿泊施設の運営だけではなく軽井沢高原教会や内村鑑三記念堂などのブライダル事業など、新規拡大も行いながら活躍の場を広げていったのです。

星野リゾートになってから現在に至るまで

1995年には星野温泉から「星野リゾート」に社名を変えています。そして1999年には山梨県小淵沢町にあるデザインホテルの「リゾナーレ」を、リゾート再生案件として引き受けます。スタート時の平均稼働率は40%を切っていましたが、2004年には黒字化に成功しました。

2003年には東北にあるスキー場「アルツ磐梯」の経営に参加し、業績を立て直した人物の1人として活躍します。その結果、星野佳路氏の経営再建事例が注目を浴び、星野リゾートも軽井沢の老舗リゾート企業ではなく「日本のリゾート運営会社」として世界中から注目を集めるようになったのです。

2005年には星野温泉で約100年もの歴史を刻んできた旅館を閉館し、「星のや 軽井沢」を開業しています。おもてなしは世界の水準をベースにして考え、開業時から大きな話題を生みました。

その後も京都や竹富島など、様々な地域に「星のや」を開業し続けています。

星野佳路の人物像

星野佳路氏は基礎を大切にしている人物です。学生時代に続けてきたアイスホッケーでは「うまくなりたい」という強い想いから日々練習を頑張ってきました。それと同じように良い経営者になるために自分の感覚ではなく「教科書」に頼ることを意識してきたと言います。

星野リゾートの経営でも「経営者が最初にやるべき仕事はビジョンの設定」と教科書にも書いてあるように、「軽井沢を超えた場所で運営をする会社にする」というビジョンを掲げて経営を立て直すことに成功しています。

コーネル大学でホテルの経営学について学んでいても、良い経営者にすぐになれるわけではありません。しかし、実家を継いで実際に経営を任されたため、不安を抱えながらも日々模索を繰り返していきました。

そうした中、やはり基本が大切だと気が付き、ビジネス書や組織論が描かれている教科書に頼ろうと考えたのです。

そして教科書に記載されている基本を徹底して行い、その後自分たちの個性を育てていくことが大切だと星野佳路氏は考えています。土台がしっかりとしていなければ個性を積み重ねても良い経営者にはなれず、良い旅館も作れないでしょう。

星野佳路氏が実際に影響を受けた教科書としては、マイケル・ポーターやミンツバーグ、ドラッカーといった人物たちの書籍が挙げられています。

ビジネスや経営について学びたいと考えている人は、ぜひチェックしてみましょう。

星野佳路が人生や仕事で大切にしていること

星野佳路氏が人生だけではなく仕事をする上で大切にしていることは「ストレスを少なくすること」だと言います。

例えば、趣味のスキーもその1つです。仕事から離れられる趣味の時間を見つけ、年間で60日間スキー滑走という目標を掲げています。

スキーをする際にはアシスタントとスケジュールを相談し、遊びの時間を確保してから仕事の計画をしていると言います。最初に好きなことを計画し、残りの時間で仕事をするのであれば目標があるので計画的に仕事ができ、効率もアップするでしょう。

また、星野佳路氏は「3ない主義」も大切にしています。

  • 行きたくないところには行かない
  • やりたくないことはやらない
  • 会いたくない人には会わない

上記の3つを主義としてストレスを避けて生活をしているようです。限られた期間内で仕事を全うできるよう、本当に必要なことのみを実行に移しています。

星野リゾート成功への道のり

星野リゾートが成功へと歩んだ道のりは決して平坦ではありません。なぜ、これほどにまで大きな発展を遂げたのか、それには「フラットな組織」が関係しています。

アメリカから帰国後、実家の温泉旅館の経営を任された星野佳路氏ですが、同族経営特有のしがらみがあり、辞めていく人材も多かったと言います。そのため、経営での最初の課題は「人材の確保」が最優先だったのです。

しかし、良い人材が入ってこなければ意味がありません。そのため、同族経営特有のしがらみを払拭し、社員同士が何でも言い合えるフラットな組織を作ろうと星野佳路氏は考えます。

旅館の経営では、お客様と接する機会の多いスタッフが毎日様々なケースに遭遇します。その中で、自分で考えて判断しなければいけないケースはたくさんあるので、トップに言われてから動くのではなく、自分自身の判断で行動できるような人材が必要となります。

現場から生まれたアイデアや発見をスタッフ同士で共有するためにもフラットな議論が必要です。役職に関わらず様々な意見を言い合える環境があれば、若い人材にも発言権があり、不満や不安の払拭にもつながります。

悩みがあれば議論によって解決もできるので、若手も大きく成長できるでしょう。トップが「こっち」と決めれば話は早いです。

しかし、実際に現場にいる人物でなければ分からないことはたくさんあります。現場で起こっていることを多く知っている人物らが議論をし、答えを導きだした方が正しい判断ができると考え、星野佳路氏はフラットな組織づくりを大事にしています。

フラットな組織づくりのための議論が実施されなければ、星野リゾートがここまで成長してこれなかったと予想できます。

星野佳路の評判やイメージは?

実際の星野佳路氏に関する評判やイメージをご紹介します。

星野氏に対するインタビュー動画を観た感想です。基本の徹底がいかに大切なのか、動画を観て学んだ人も多かったようです。

前述したように、星野氏は基礎を大切にしています。これから何かを始めようと考えている人は、基礎を確立してから物事を始めた方がうまくいくかもしれません。

 

こちらも星野氏による動画インタビューを視聴した人の感想です。自分が行っているビジネスでも勉強になる発言をしていることがうかがえます。

まとめ

星野リゾートを確立し、世界に日本のすばらしさを伝えている人物でもある星野佳路氏についてご紹介してきました。星野佳路氏は、決して平坦な道のりを歩んできた人物ではありません。時に躓きながらも基礎を大切にし、星野リゾートの再建に励んできました。

口コミにもあるように、学べる発言を多くしている人物でもあります。星野佳路氏のインタビュー記事や動画を参考にしながら、自身の仕事に活かすのもおすすめです。今後の活躍にも注目していきましょう。